苦労の連続の親、大したことができるわけじゃないけど、やはり偉大だ!

 ーー  3月24日  ーー

 障害がある子どもの修学や進路について、やってみなければわからないのだが、始める時に「大丈夫だろうか?」と、つい思ってしまうことがある。

 小学校入学にあたり、通常学級に在籍する。トラブルが起こる。「いつでも観に来ていいですよ」と言う学校で、実際に観に行って、私は「いいのだろうか?」と心配になってしまった。担任の先生に「特別支援学級がいいんじゃないの?」と問いかけてみた。担任の先生、「大変だけど、まだ大丈夫です」と答えた。実際、大丈夫だった。小学校の先生はすごい。

 お母さんの気苦労はどれほどのものだったか。これからもどれほどの苦労があるものやら。生まれる前からのつきあいがあるわが子を信じ切れるのは直観なのか何なのか、とにかく子どもは2次障害を起こすどころか、徐々にトラブルも減り、人の気持ちがわかっていく。

 子どもは放っておかれてなるがままに成長していくのではない。そこには日々の生活があって、ご飯を食べてお風呂に入って寝て、遊んだり出かけたり買い物に行ったり、一緒に笑ったり泣いたり怒ったり騒いだりしながら、「こうなってほしい」と心底思う親の願いがあって、それは言葉になろうがなるまいが子どもに通じているのではないだろうか。それはわが子にだけ通じているのではなく、支援に関係している人たちにも通じて、総合的な大きな力になっているのではないだろうか。

 「あきらめるわけにはいかない」のだよね。あきらめたくもなるだろうし腹も立つよね。 小学校・中学校であの問題この問題と悩みに悩んだ家族だが、その子どもが高校に合格する。両親の努力と忍耐。学校で、なんとかこの生徒と家族を支えようと共感的に接し、使命感をもって広い心で対応してくれた先生がいた。紆余曲折あっても、高校に進学できた。これから歯車がうまく回っていきますように。

flower of spring

ほんのわずかな期間、秋田にとてもいいインクルーシブ教育があった

 ーー  1月28日  ーー

 今から25年くらい前に秋田県の男鹿南秋(おがなんしゅう)地区に養護学校(今は特別支援学校と言う)を作ろうと住民運動がありました。私はその運動組織の中で願いが実現するようにがんばっていました。運動は順調に進んで目的は達成されました。新たな養護学校が開校するまでの間、経過措置として地域の小学校内に養護学校の分教室が設置されました。

 地域の小さな小学校、その校舎内に県立の養護学校の分教室が設置される。これは、過渡的な措置であって、念願の養護学校が建築されればすぐになくなるものだとしても、画期的でした。「インクルーシブ教育は、多様な子どもたちがいることを前提とし、その多様な子どもたち(排除されやすい子どもたちを含む)の教育を受ける権利を地域の学校で保障するために、教育システムそのものを改革していくプロセス」(ユネスコのインクルージョンガイドライン)を実現するものだとわくわくしました。

 実は、私はその小学校に勤務していたのですが、分教室ができるまさにその時に中学校に転勤になりました。だから、分教室があった期間の様子を直に感じていません。新たに養護学校が建設されて、分教室が消えて数年後、当時その小学校と分教室にそれぞれ勤務していた何人もの先生たちから、「とてもよかった」「理想的だった」と聞きました。「自然に交流していた」、「休み時間に小学校の子どもたちが分教室に遊びに来て、自然に声をかけあっていた」、「集会に参加した分教室の子どもが声を出すと、小学校の子どもたちが振り返ってその子どもを見ていた。やがて、声が出ても、誰も気にしなくなった」など。ある先生は私に「あの様子を記録としてまとめたらいい」と勧めてくれました。私にできるわけもなかったのですが、そう勧めてくれるほどの貴重な期間だったと思うのです。

学習支援は子どもの様子を見てあれこれと試してみる 支援に労力を惜しまない

 ーー  5月15日  ーー

 「これ以上の勉強の支援は難しいのではないか」と先生は言うけれど、「どうにかして小学4年生の割り算まで習得できないだろうか」と希望を捨てきれないお母さん。またまた「それじゃあ、うちでやってみましょうか」と。

 ということで、運動支援は妻に任せて、学習支援は私の直接支援に。

 数詞は言うし、数字を読んで書ける。でも、たとえば、「3」と具体物3つが結びついていない感じがした。たとえば「ゾウが3頭とあめ玉3個を、同じ『3』で表象できていないのではないか?」とも感じた。

 ところで、勉強は、ここで生きているAさんがするもので、Aさんが納得できるような内容で指導しなければならない。学校に楽しく行って同学年の子どもたちと過ごしている小学生のAさんに、基礎的な訓練のようなことを繰り返したって、つまらないのではないだろうか?

 ということで、できるだけAさんの学年に近い学習内容で勉強開始。

 「一桁+一桁=二桁」の繰り上がりの計算で、解いていく手順がわかりやすいように数式にヒントを記して指導してみた。少しの間一緒に解いていったら、Aさん一人でできるではないか!

 これに味を占めて、繰り下がりを指導してみたが、うまくいかない。そうしたところ、繰り上がりができることを知った小学校が、今度は算数専門の先生が繰り下がりの指導をしてくれて、できるようになっちゃった。

 ということで、算数の勉強が着実に進んでいっている。

 国語もごく初歩的な読み取り問題をやってみたができない。Aさんにわかりやすいように、答えになる部分を含んでいる文章に傍線を引いて示して、そこから答えになる部分を取り出しやすいようにしたが、どうもすっきりしない。

 そこで、市販の初歩的な問題集の1ページ分の問題文からさらにAさんが答えやすいように自作プリントを作ってみた。

 たとえば、「くまさんが歩いて、りすさんのおうちに行って、それからうさぎさんのおうちに行きました」というような内容の文章に対して、問題が「誰が歩いて行きましたか?」だとします。これだとAさんは迷いの世界に入ってしまう。これに対して自作プリントで、「だれがでてきましたか?」と問い、解答欄に「とらさん くまさん うさぎさん Aさん りすさん」と記しておいて登場人物に〇をつけるようにします。Aさん、大喜びで正しく〇をつけます。問題文に自分の名前が出てきたり、なじみのスーパーマーケットの名前が出てきたりすると、大喜びでがぜんやる気が出ます。そのあとで、「誰が歩いて行きましたか?」の問いに即座に「くまさん」と答えます。 このことは、Aさんが全然理解していないということではないですよね。しかも、Aさん、笑い転げるようにしてこの学習に向かってくる。

 これでいいのだろうか?いや、いいもわるいもないのではなかろうか?どんな人であれ、実際に生活している人が何も考えないということはありえない。Aさんのように素直でまっすぐで人が大好きなで、自分なりにいっしょうけんめい生きていこうとしている子どもに、みんながしている勉強についても支援をしていく。人それぞれに自分に合った思考とか記憶とか感じ方があるはずです。それに応じて支援していく。Aさんが支援者とかかわって積極的に学習をしている。支援する私も楽しく幸せだ。

算数をやっているイラスト

これも理想的な運動支援

 ーー  5月13日  ーー

 相談事業所では、利用者さん一人ずつに通常は半年に一回モニタリングをします。お母さんが「運動も勉強ももっと指導してほしいんだけど」と話すので、「それじゃあ、うちの事業所でボランティアでやってみましょうか」ということに。

 普通は相談事業所が子どもに直接支援をすることはありませんが、私は、「やってみればうまくいくのではないか」と思い、やりたいのでした。しかし、とても忙しくて現実には私にはできない。頭にあるのは妻のことで「きっとやってくれるべ」と期待して、子どものお母さんに「うちでやりましょう」。

 子ども用のおもちゃのバット・グローブ・ボールを持って意気揚々とやってきます。子どもも妻も、実は野球のルールをくわしくは知らない。子どもがまっすぐな心をもっていて、自分が楽しくできると思うルールでさっさとゲーム開始。とにかく遊んで楽しみたい子どもと、何とかして運動機能の衰えを防ぎたい初老の妻が、ワイワイギャーギャーと戦い、いつも「5対3で、〇〇さんの勝ち!」などという調子で、〇〇さんは事務室にいる私に、「今日も◇◇さん(妻)が負けたよ」と報告に来るのです。

 こんなことをしていると聞いたBさんが「息子がとにかく運動が苦手で」と電話をくれました。またまた妻の出番で、風船バレーボールなど、お母さんも妹さんも時にはお父さんも加わって「ソレー」「エイ!」と楽しみます。退職した前の担任の先生が駆けつけたことがありました。みんななかよく楽しみます。

 これは私にとって理想的な姿です。

野球道具のイラスト

子どもがどんな気持ちでいるか、どうしたら理解してくれるかを想像して、支援する

ーー  12月11日  ーー

自閉症がある子どもの支援についてです。

 自閉症と言っても、子ども一人ひとりで状態が異なるのですが、この子たちはよく「こだわりが強い」と言われます。「こだわり」が見られた時に、支援者が「自閉症だものね」とみなして「こだわりがあるのだからしょうがないね」で済ませては、ちょっと困りますね。

 かつて知的障害の養護学校と言われていた学校の教員をしていた頃、もう30年ぐらい前のことです。冬の日に、ある小さな女の子が手袋を見て泣いて、手袋をしようとしないことがありました。ところが、次の日に彼女はすっと手袋をして外に行きました。おそらく彼女はそれまでに手袋をすることを求められたことがなかったのではないでしょうか?だからとても不安に感じて泣いた。「私はこれまで手袋をするように求められたことはなかった。これは何?どうするの?」と言葉での表現はしませんね。そうはできません。不安でなんとなく怖くて泣くしかなかった、ということだったのではないでしょうか?でも、前日に周りの子どもたちが手袋をして外に行くのを見たので、「こうやって外に行けばいいのね」と納得して自分から手袋をしたのだと思います。

 当時の養護学校で彼女は「重度・重複」と見られて、そのグループで指導を受けていました。でも、経験していないだけで、一度本人が納得できるように教えてもらったり、自分から納得できたりすれば、何事もなかったように目的に応じた行動をするのでした。彼女が理解するルートに応じて支援すれば目的に応じた行動をするのでした。

 支援する者が、このような理解をしないとか「どうしたらわかってもらえるだろうか」と努力をしなければ、「混乱している子ども」とみなして、それに応じた対応をしてしまいかねません。

 学校の避難訓練で上履きを履いたままではどうしても外に出られなくて混乱する生徒を担任した時、前からいる先生から「避難訓練では大変なことが起こる」と聞いていました。訓練前日に、やや強引な指導でしたが、私が彼の上履きを玄関からポイっと外に投げ出したことがありました。

彼、「ウワッ!なにをする!」。

私、「まあ、いいからこうしましょ」と、彼を押して、靴下のままで玄関からすぐそこにある上履きを取りに行かせました。そうしても「この世の中では安心して過ごせる」と実感できた彼は、避難訓練で何事もなかったように上履きのままグラウンドに避難できたのでした。

彼と私はどういうわけかウマが合っていつもニコニコ笑い合える関係だったので、こんなやや強引な取り組みも成功すると私には確信があったので行ったことでした。

 もし、彼女や彼が「気持ちが乱れやすい」「いつも混乱する」と見られ続けていたらどうなっていたでしょうか?実際に彼は以前のクラスでは特定の同級生たちとの折り合いが悪く大変苦労していました。そういう期間が長かったのでした。しかし、なぜかウマが合う私が彼と休み時間に面白おかしく楽しく過ごしていると、折り合いが悪かった同級生たちが寄ってきて、彼をおもしろがるようになりやさしくなり、やがて彼はそのクラスで明るく授業を受けるようになりました。

 表面上の理解で「(あの生徒は)いつも気持ちが乱れる」「指導が難しい」と思うところから、支援者はもう一歩踏み込んで、「それじゃあ、どうしたら子どもに理解してもらえるだろうか」と相手の気持ちや状態を想像し、彼らが理解するだろうと考えられる方法で支援することが大切です。予想が外れてうまくいかなければ、考え直して別の方法で取り組めばいいのです。

 ただ、気をつけなければならないのは、支援する側と支援される側両者の根底に相手を思いやり尊重して安心できる信頼関係がなければどんな支援もうまくはいかないということです。また、「こだわっている」「不安に思っている」時の状況によっては、踏み込んでいかずにそっとしておいた方がいいこともあります。普段の心を通わせた付き合いから、言葉で言わなくても相手の気持ちが自然にわかってくることもあります。ウマが合うとそうなっていきます。どんな時もどんな人ともそうできるのではありませんが、そうなるような努力をしなければ始まらないのです。

稲刈り後の田んぼ

教師の善意が実は子どもを苦しめることもある  家庭・学校・福祉事業所の連携を

ーー  7月1日  ーー

 障害がある子どもが適切なアセスメントがあって、学校でどんなことをどんなふうにして指導するかを関係者からの情報も活用して本人・親御さんが納得してスタートできればどんなにいいでしょう。また、学校で支援に困った時、本人・親御さんが疑問に思った時、関係している福祉事業所から情報交換をしたいと申し入れがあった時、すべての参加者がお互いを尊重しながらなるべく早く会議を開催できればどんなにいいでしょう。


 実は私も30年ほど教員として働いていました。自分ではまじめに一所懸命なつもりで子どものためと信じていたのだが、後から「あれは大きな考え違いだったのではないか」と悔やむこともありました。子どものためと思い込んで指導していたのですが、結果的にその子どもと親御さんに苦しい思いをさせてしまったと後悔しています。本当にすみませんでした。


 失敗から得たことの一つは、「子どものことは親が一番わかっている」ということです。親御さんに特別支援教育の専門家ではないのですが、どのようなことに子どもが喜び、どんな状況で子どもがいやがるかを経験的・直観的に知っています。この情報を十分に得て、子どもが大変な恐怖や不安を感じることは避けて支援にあたらなければならないと思います。不用意にそのような経験をさせたら、その後の子どもの気持ちの持ちようや行動に大きな影響与えてしまいかねません。特別支援教育でも不登校ということはあり得ます。それをした先生を見ただけで拒否的な態度をとるようになってしまいかねません。教師から見れば、「何をこんなことで」「こんなことで恐れていては将来世の中で生きていけないでしょ」ということかもしれませんが、本人にすればとても大きな問題で耐えられないのです。本人のこの思いを無視して教師の価値観を押し付けてはいけない、と思います。


 子どもの今の状態から出発して(たとえそれが世間の常識から大きくかけ離れている状態でも)、本人・親御さんが納得できるようにして支援を続け、その支援でいいかを本人・親御さんに確認しながら信頼関係を作っていったらいいですよね。


 現実には教師の価値観の押し付けは生じてしまいやすいです。「もっとできる」「がんばればできる」などと、子どもがもっと成長するだろうと信じて指導してしまいます。教師にとってはそれがあたりまえで純粋に子どものためと思っているのですが、子どもにとってはそれが大きなストレスで耐えらえれないとか、学校では確かにがんばってできたのですが緊張や不安を抱え込んで家に帰ってから爆発するということもあります。子どもも「自分にはできる」と思い込んで一旦は挑戦しますが、やってみたら思いのほか大変で混乱することも起こりえます。


 今は文部科学省も厚生労働省も「家庭・学校・福祉事業所の連携」を提唱しています。教育がスタートする時点からこれができたらいいと思います。万全に準備をしたと思っても困ったことがしばしば生じます。なるべく早めに親御さん・外部の関係者を含めた会議を開いた方がいいのです。どんなに子どものためだと純粋に思っても、相手から確認を取らなければ方向違いは生じかねないのです。

ayame

夢は大きく、専門的に支援できる事業所に

ーー  1月29日  ーー

 このブログを書く大きな目的の一つは、このNPO法人が発達障害がある子どもたちへの支援が専門的にできることをどうにかして世間に認めていただきたい、ということなのです。

 専門性の一つはアセスメントについてです。アセスメントは、どのような方法で支援したら子どもとご家族が安心して暮らせるか、子どもがのびのびと自分の力を発揮して生きていけるかを探るためのものです。

 そして、実際に支援してどうだったか?子ども本人、親御さんの願いは充足できているかをチェックしながら支援していきたい。もし、なかなか目標に到達できないのであれば、関係者みんなで話し合って、アセスメントも含めて環境調整や支援方法を見直して善処するような、そんなチームでの支援を作っていけないだろうかと夢見ている。

 障害児者の相談事業所を経営しながらこれをしていくのはもちろん大変な仕事です。今のところ、ごく少人数のボランティアと共に、発達障害がある子ども、不登校の子どもへの実際的な支援をしているところです。ひきこもりの方への支援もしています。また、相談事業所と契約している子どもが利用している放課後等デイサービス事業所に出向いて発達検査を実施することも始めました。

 まだまだスタートしたばかりですが、私は発達障害については専門性があると自負しています。特別支援教育の教員として20年以上勤務してきたし(その間、失敗もしてきましたが、反省してそのような失敗は2度としないようにと思っています)、資格(公認心理師、学校心理士、等)を取得し、勉強してきました。これらの経験・知識に加えて、お子さん・ご家族の立場に立って一緒に考えていき、実際に支援していく。なかなか出口が見えないことがあっても粘り強く関係者と話し合いを続けていくのが専門家だと思っています。何かをやり遂げて完結した専門家ではなく、現在進行形の専門家ですね。

 今のところはボランティア活動としていますが、できればさらに専門性を深め(理論を学び、検査の回数を重ね、実際の具体的な支援のケースも増やしていきたい)、スタッフも増やしていければいいのですが。スタッフに生活できる給料も払える事業所にすることができたら最高ですね。

梅の木と花

 

家庭と教育と福祉の連携を

ーー  11月28日  ーー

 11月はまた、私の事業所と契約している利用者さんたちが学校・教育委員会との間で調整が必要でした。これは実に大変な重労働でした。

 小中学校の先生たちは、研修を受けているので、「発達障害」「特別支援教育」について大まかな理解をしているはずです。しかし、目の前にいる障害がある児童生徒を理解すること(アセスメント)にとても苦労する場合が実際にはあります。先生たちにとって自分たちの経験や入門段階の研修の知識ではとても歯が立たないお子さんの状態があるのです。学校や教育委員会で専門家だと言われている職員にも初めてのケースで知識がないということがあります。こうなると、学校も教育委員会もどうしていいのかわからないというのが実情ではないでしょうか?

 これを何とか円満にそのお子さんに合った本来のあるべき教育が行われるように進めていきたいのです。というより、そうしなければならないのです。これは、お子さんとご家族を尊重してていねいに相談していくというごく常識的な対応と、これまで自分たちが身につけてきた考えでは太刀打ちできないためにそのお子さんの状態に合った支援方法を全力で探す(この方法はこれまでの自分たちの常識からかけ離れている場合もある)という両面を同時に進めていく困難な作業です。お子さんやご家族が不安に思うことがないように、「今はわからないけど、みんなで力を合わせてお子さんに合う教育をしようと努力しています。ご家庭からも協力をお願いします」というようにやっていきます。ところが、ややもすると、これまでの自分たちの常識が優先して、保護者からの要望に「それはムリ」と応じてしまいはしないでしょうか?もしかすると、私たちにはうかがいしれないことですが、学校と教育委員会にはそう言わざるを得ない実情があるのかもしれませんが。

 文部科学省も厚生労働省も「家庭と教育と福祉の連携(トライアングルプロジェクト)」を謳っています。でも、現場はそれが認識されているのでしょうか?たとえ認識されていてもどのようにたらいいのかがわからないと思います。どの関係者もお互いを尊重して、虚心坦懐に、粘り強く話し合いを始めてはどうかなと思うのです。

百合の花